2015年12月5日土曜日

開封(开封,kāi fēng,かいほう) 北宋の首都 河南省 ★★★



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八大古都
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西安・北京・南京・洛陽・開封・杭州・安陽・鄭州という八大古都。

順に巡ってきたこれらの古都。その最後の二つを巡り切ろうと冬の寒さが身にしみてきた師走の週末の早朝に再度北京西駅より電車に乗り込む。

約3時間かけて鄭州に到着し、その後電車を乗り換え向かうのは開封(开封,kāi fēng,かいほう)。約30分を乗り換え時間に見ていたので余裕だと高を括っていたのだが、先日のパリでの同時多発テロの影響か、想像以上に駅への入場における安全検査が厳しくされており、そこには長蛇の列。

並んではみたものの、とてもじゃないが30分で電車に乗れるような状態ではなく、駅員に状況を話すと「真ん中の入口は少しは空いているはずだ」というので、走って向かう。新たしい高速鉄道駅は兎に角長い。その為に端の入口から中央の入口まで優に数百メートルの距離。時間を確認しながら、「これを逃すのはなんとしても避けたい」との思いで何とか足を前に進める。

到着した中央入口は確かに先ほどよりもやや状況は良く、並んで暫くすると安全検査まで到着する。ここを抜けても再度中において切符とIDの確認を受け、分かりにくいプラットフォーム表示を何とか見つけ電車に乗り込んだのは出発5分前。

風邪を引かないようにと噴出す汗を拭きながら、作ってきていたサンドイッチを頬張りながら向かう先の開封について再度おさらいをすることにする。

この都市の歴史を読み解くと紀元前の春秋時代までさかのぼる。鄭(郑,Zhèng,てい)の国がこの地を支配しており、城を築き「啓封」を名付ける。その後戦国時代へと突入し、勢力を伸ばした新興国である魏(Wèi,ぎ)により奪取され、その名を「大梁(dàliáng)」とし首都とする。

その後時代は流れ、隋の時代に突入すると大運河が整備され、交通の要所としてこの都市の重要性は一気に高まり、南部から届けられる物資の一大集積地としての栄える。これは中原の中心に位置し、かつ黄河のすぐ脇に位置していたその地勢的優位性を人々が発見した結果であろう。

その後の唐の時代。首都として世界の大都市として君臨した長安は現在の西安。これはこの開封から黄河にそって西に進んでいくと鄭州を超えてすぐの距離だということが分かる。黄河に沿ったこの都市群の関係性が見えてくると、「中原」と呼ばれたかつての中国の中心地、そしてその範囲が現在に比べより密集していることが見てくる。

その長安も、唐末期になると衰退を向かえ、その代わりにこの開封が中心としての地位を獲得していく。その後の五代時代もこの地を主と都市、その後趙匡胤(ちょうきょういん、太祖)によって興隆した宋もその首都をこの開封とし、世界的な発展をこの地にもたらした。

1127年に起こった靖康の変によってこの地を追われ、現在の杭州であった臨安に都を移した後の宋については、大別するために南宋と呼ばれている。その後北のモンゴル族が押し寄せ打ち立てた元のよって支配された中国は、その首都を北部の大都(現在の北京)とし、その京に向けた南部から豊富な物資を輸送するために、杭州と大都を結ぶ京杭大運河(けいこうだいうんが)を再整備する。

つまり、それまでは杭州から西に向かい一度この開封を経由してから北に向かい北京に到達するルートで、それはこの開封の重要性がある為ゆえのルートであったが、それを杭州から一気に北へと進み天津を経由して北京にいたるより直線的なルートとして整備された訳である。

それは同時に北京への富と権力の集中を意味し、逆にこの開封が歴史の舞台から降板を意味した。その後の明・清時代においては、首都である北京が更に地上における理想都市として風水など様々な観点から整備をされて巨大化していく。

そして中華人民共和国が設立し、省として領土を再定義して行く過程の中で、河南省に位置するこの開封はその省都としての地位も隣接する鄭州に譲ることとなり、近代における新たな交通ネットワークである鉄道インフラにおいて重要なハブとなることはなく、市区人口100万弱の地方の一観光地として現在に至っている。


ざっとこの開封が辿ってきた歴史の中での盛衰を眺めるだけで、この都市が長い時期において、この広大な国の中で極めて重要な都市としての地位を担わされてきたことが分かる。

何故か?
何故人々はこの場所を都市として定め、そして都として更なる意味を付加させていたったのか?

自然発生的に起こりうる都市の始まりと、その後の都として巨大なエネルギーを投入し、人々が集う場所として、政治の重要な装置として機能させる都とさせたのは、この場所が何かしらの潜在的な力をもち、それを時代と超えても、それぞれの時代に生きた人々がそのポテンシャルを何からしらの形で感じ取ったためであるはず。

それを少しでも感じるために出来るだけこの都市を歩き、当時の人が見た風景を想像力で補正しながら見つめ、その風景に投影された彼らが理想とした都市の形と社会の姿を覗き見れるようにと水筒をリュックにつめて到着したプラットフォームに降り立つ。









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