2015年4月27日月曜日

貧困の原因

「貧困」や「格差」が叫ばれて久しくなった現代の日本。

「絶対的貧困率」「貧困線」などそれを定義するには様々な数字が並べられ、みんな自分が「社会の中でどのあたりにいるのか?」を知るために気をもむことになる。

収入は少なくとも、多くの友達に囲まれ十分に幸福そうに日常を過ごす若者がいたり、大きな会社で勤め上げたにも関わらず、老後一人で社会とのつながりを持たず、苦しみながら過ごす人がいたりと、「貧困」の定義はなかなか見えづらい。

「最貧困女子」の中でも語られるように、同じような低収入しかなくとも、ある女性は社会から孤立し、性風俗業界を渡り歩くことでなんとか人生を紡ぎ続ける貧困の日常にいるが、ある女性は地方で中学からの友達とつるみながら、お金が無いなりにうまくやりくりをしながらそこそこ幸せな日常を暮らしている。

その違いは何なのかと考える折に、作家の橘玲が非常に分かりやすく「貧困に陥る」とはどういうことかを説明している。



経済通の作者らしく、人の持ちうる「資本」を「人的資本」「金融資本」「社会資本」の三つとし、「人的資本」は如何にその人自身が社会の中で活躍する能力があり、仕事をこなし報酬を得る力を身につけているかとし、「金融資本」は収入や資産など、その人が持っているお金の多さを意味し、最後に「社会資本」とは、友人や地域とのつながりの強さや、困った時に助けてくれる家族や親類の多さを示す。

こうしてみると、地方でマイルドヤンキーと呼ばれる収入は決して高くは無いが、多くの友達に囲まれ、地域のつながりを強固に持っている人々は「人的資本」や「金融資本」は低いけれども「社会資本」は非常の高いので、貧困に陥ることなく幸せな日常を過ごせるとする。

今はまだまだ社会で認められてお金を稼げる段階ではないが、一生懸命勉強をし修行をしながら自らの技術や知識を磨いている若い世代は「金融資本」は将来的な「人的資本」への投資を行っている段階だとする。

そしてこれらの三つの資本をすべて失っている状態が「貧困に陥る」状態だと定義する。
と同時に資本を一つしか持っていないと、何らかの拍子にそれも失って「貧困」に陥るリスクが高いとする。

仕事を一生懸命しても、それがプロフェッショナルとして「人的資本」に繋がっていなければ、頑張って収入が上がっても、それは他の「資本」を構築していないので、何かしらの原因でその仕事を失ったら「貧困」に陥る可能性がある。

同じように、必死に仕事をして友達や家族とのつながりをないがしろにし、徐々に身の回りから近しい人がいなくっていると、これも何かの拍子に仕事を失ったりとする際に「貧困」に陥る可能性が高いという訳である。

つねに二つ以上、できれば三つの資本をバランスよく向上していくこと。適齢期に結婚をし、子供を作り、両方の親とも程よりつながりを持ち、昔からの友達とも友人関係を続けながら、仕事も自らの職業人としてのキャリアを意識しながら能力を向上させつつ、それが収入の向上と同調する。

そんなスーパーリア充「超充」がベストだということになる。そうはっきり言われるとハードルの高さにげんなりし、なんとも億劫になってしまう。

まぁなんだかんだ言いながら、「貧困」なんて相対的なもので、最終的には「自分がどう捉えるか?」によってしまうかなり主観的なものである。例えば同じものでも、ある人にしたら「こんな素晴らしいものを得られてなんて自分は幸福なんだ」と思う一方、ある人にとっては「こんなものしか得られない自分はなんて不幸なんだ」と。

旅行や、ファッション、食事、生活。すべてにおいてこの心理的な受け取り方の違いは発生する。それはその人が何をスタンダードとして捉えるか、どれだけのことを知り、経験して、物事のレベルを詳しく知っているかに拠ることになる。本や映画による疑似体験やそれによって養われた想像力によって補完されることもあるだろう。

それに自分の身の丈を十分に理解し、無理をして背伸びをしないこと。それによって、同じ量でも「これだけか・・・」と思うのか、それとも「こんなにも・・・」と思えるのか、それで幸福度は変わり、心理的な「貧困」からの距離を変化する。

そんな訳で「人」「金」「社会」という三つの資本を高める意識を忘れずに、なおかつ身の丈にあった日常を生きつつ「想像力」を養いながら生きるのが、あっちにもこっちにも潜む「貧困」の落とし穴に嵌らずに生き残る術なのだと納得することにする。

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