2015年3月6日金曜日

サービス先進国の日本と日本人

世界中どこにいっても、日本のサービスはいつも先回りして、こちらが何か不便を感じる前にサービスを提供してくれる。それがすでに対価として要求されようとも、不便や不満を感じるということを日常の中から消し去っている。

如何にドイツやフランスといえども、その点に関しては遠く及ばない。ましてや中国などでは、基本的に日常の中は不満や不便で満ち溢れている。

サービスの内容やその効率では明らかに日本は世界のどの国よりも先に行っていると、様々な場所に行けば行くほど感じることになる。

これは旅行者として感じる「不慣れな土地にやってきた人にとっての親切なサービス」というレベルのものではなく、「その土地に住まい日常を生きる人にとってのサービス」のレベルでも圧倒的に日本のサービスは質が深い。

それは常に相手のことに気を遣い、何が相手の為になるか、何をされたら心地よいと感じるのかという「おもてなし」に代表される日本文化とそれを体現する日本人の思慮の深さの成せる業であることは間違いない。

しかし、そんな世界最高水準のサービスに日常的にひたされて慣れきってしまっている日本人の身体。それが一度その水準を知りをしない人々であふれている海外に行くと、そこで待つのは「なんでこんなことも気がつかないんだ?」という苛立ち。今まで当たり前だと思って享受してきたことが、当たり前の様に提供されない世界。

逆にサービスの行き渡っていない国からより充実した国へと向かう人にとっては、そこで過ごす一分一秒がなんとも心地よい、なんとも親切で丁寧なサービスを楽しみ、こんな素晴らしい世界があるものあと感動すら感じることになる。

「水は高きより低きに流れ」

経済でも文化でも万物の法則としてすべてに当てはまるこの格言。

車の交通マナーから、レストランでのオーダーの取り方、お店での接客の仕方、館内案内の分かりやすさ、空港で待機させるときに状況をできるだけ説明して背景を知らせようとすること、予定不順の事態への対応の仕方、買ったものの梱包の丁寧さ、公共空間で大声を出さないことなど挙げ出したらきりが無い。

「快適さ」や「便利さ」という見方で見てしまうと、海外に出る日本人はあるところでただただ苦しむことになる。それならば、今流行の「内向き」とういことで、安寧として国内に留まりマイルドヤンキー化するのが正しいのか。

それとも、それ以外に物事の見方の軸を自分の中に確立し、苛立ちを吸収する緩衝材を手に入れる、それができるかできないかが、ひいては自らをストレスから守ることに繋がるのだと、半ば諦めを持って物事を見ていくことにするしかないのであろう。

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