2014年2月4日火曜日

米子市公会堂 村野藤吾 1958 ★★



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所在地  鳥取県米子市角盤町
設計   村野藤吾
竣工   1958
機能   公会堂
規模   地上4階、地下1階
構造   RC造一部鉄骨造
延床面積 4,872㎡
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完全に身体が冷え、更に強くなる雪の様子に完全に心が折れ始め、道が走行不能になる前にできるだけ早く宿泊地の皆生温泉に到着できることを祈りながら、振付ける雪道をのろのろと進んでいく。

日本海側を走り、やっと米子市に入った頃に、少しだけ雪の降り方が弱まったので、宿までの途中の住宅地に位置する大神山神社の本社ならいけるのではと甘い考えが頭をもたげ、ナビに住所を入れて車を走らせる。

しかし幹線道路で多くの車が走っているからこそ、轍が出来てなんとか走行できるようになっているが、ほとんど車の往来のない住宅地では道路自体が雪に埋もれてしまって、一歩間違えれば道から脇の田圃に落っこちてしまう。そんな道をなんとか抜けて大神山神社本社に到着するが、Uターンすらままならない道幅が把握できない状況にすっかり気持ちがそげて、車から降りることすら断念し、何とか幹線道路まで引返し宿泊地に向かうことにする。

そんな訳で建築家ならば一度は宿泊してみたいと夢見る戦後モダニズムの傑作である菊竹清訓設計の東光園に泊まるべく、わざわざ米子市中心部から離れたこの皆生温泉に宿を取ったにも関わらず、とてもその建築を楽しめる余裕は無い状態で宿に到着。

通常の建築巡りの旅なら考えられないほど早い夕方の16時にチェックイン。有名なロビー空間を堪能する暇もなく、すっかり冷え切った身体をとにかく温める為にまずは大浴場へと足を運ぶ。

この浴場も菊竹清訓設計だというが、なかなか手の込んだゴツゴツした岩を感じながら一人ゆっくりと冷えた身体を温める。折角だからと寒い外の露天風呂にも足を伸ばし、十分に体温を回復する。新館の部屋で少々休むと気持ちも回復し、明日の天気は更に悪くなるかもしれないので、車で移動できるうちに市内だけでも回ってしまおうと着替えをして再度外に出る。

そして向かったのは市内中心部に位置する米子市公会堂。山陰の文化の殿堂となるべく、当時赤字自治体であった米子市において、「一世帯が毎日一円を貯めて公会堂を」というスローガンの下に、3000万円もの寄付が集まり、総工費1億7600万円で建設されたという。まるでサグラダ・ファミリアを設計さガウディの様な話である。

そしてその設計を担当したのが村野藤吾(むらのとうご)。寄付を集める市民の想いに打たれ、設計費を返上し寄付に回したと言われている。

村野藤吾を抑揚を付けずに発音すると、どうしても最近話題の佐村河内に聞こえてしまうが、そこは音楽つながりということで、この公会堂のデザインを見てみると、実際にロシアに渡り当時のロシア構成主義の建築を多く見て影響を受けてきた村野藤吾らしく、構造を大胆に概観に現す方式がここでも採用されている。

同時に北欧のストックホルムでも古い市庁舎を見学し、その市民に開かれた空間の在り方に、「感銘の極み、只々頭が下がる」を発言したいた建築家だけあり、市民に開かれた場所としての公会堂になるべく設計がなされている。

このプロジェクトを手がける前に訪れた南米で見たグランドピアノとブラジルの教会をイメージしてデザインされたといわれている外観であるが、なんと言っても音楽ホールという客席が段階的に上昇していく形状が、そのまま外形に現われるように使われている点である。

ホールやオペラハウスの設計を行っていると、大人数の観客を受け入れるロビーに背の高い空間を与えてやり、そのロビーが包み込む形で内部のホールが配置されるという形態が現行の多くの建築であるが、そうではなく、突き出すホールの観客席の下に入口を持ってきているのは、音楽ホールという建築的に特殊な機能が持つ形態を、できるだけ外部に正直に現すことでかなり変わったデザインが現われるという意図がある。

こうして配置を行うと、もちろん演技する人たちは建物の裏側からアプローチし、観客は手前側からアプローチするという異なる二つの動線を完全に分離することが出来る。しかし背の高いロビー空間を持たないことで、段上に上がっていく観客席にサイドからアプローチし、段にそって階段をあがって各席に辿りつくようになる。どこにでもあるシネコンの様な動線をイメージしたら分かりやすいだろうか。

そうなると、舞台芸術の一つの醍醐味でもある、幕間の時間にホワイエに出て今までのパフォーマンスを振り返り、そして次の幕への期待を膨らませるという建築的高揚感を最も感じる時間に、全ての人が同じように階段を下りてサイドにある扉に向かわなければいけない。

それに対して背の高いロビーから各フロアに後ろからとサイドからアプローチすることができれば、人の流れも分散でき、なによりも幕間に後ろの背の高いロビー空間にでることでより一層の開放感を与えることが出来る。

これはもちろんホールの収容人数とその規模にもよるが、よれよりも機能が必要とする形態をそのまま外観に表現することを優先させ、その中でどんなことが実現できるかを考えた建築といえるだろう。

建物自身は竣工から50年以上を経ており、耐用年数や耐震強度に問題がある為に存廃を長らく検討されていたが、市の英断により存続が決定され、現在は耐震改修の真っ最中で、もうすぐリニューアル・オープニングを迎えるという。その為に建物の近くには近づくことができず残念であるが、十分に村野藤吾がこの地でどんな公共建築を目指したかは感じることが出来る。

ちなみにこの村野藤吾。1891年生まれの佐賀県唐津市出身。福岡県北九州市で育ち早稲田大学で建築を学ぶ。代表作は以下の通り。

1954年 - 世界平和記念聖堂  (63歳)
1957年 - 読売会館 
1958年 - 新歌舞伎座 
1958年 - 八幡市民会館 
1958年 - 米子市公会堂 (67歳)
1959年 - 横浜市庁舎 
1959年 - 佳水園  (68歳)
1960年 - 都ホテル新館
1963年 - 日本生命日比谷ビル(日生劇場)
1963年 - 梅田換気塔 
1966年 - 千代田生命保険本社ビル (現 目黒区総合庁舎)
1969年 - ルーテル学院大学
1979年 - 都ホテル東京 
1979年 - 八ヶ岳美術館 
1983年 - 谷村美術館  (92歳)

因みにこの公会堂。感性から20年を経た1980年に増築をしており、その増築設計を担当したのもこの村野藤吾という。20年の歳月を隔てて同じ建物を設計するというなんとも珍しい経験は、20年の歳月を隔てる異なったディテールを今に残してくれている。

米子市の駅前から伸びる繁華街でもある角盤町。その入口に立つ山陰の文化の伝統。リニューアルを経て、これからどんな市民に開けた空間を見せてくれるのだろうかと想像しながら日の暮れてきた空を見上げて最後の目的地へと向かうことにする。




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