2014年2月2日日曜日

石見銀山(いわみぎんざん) 神屋寿禎 1526 ★★


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世界遺産(2007)
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金・銀・銅に石炭。何百万年も地中の中で眠り、特殊な鉱物となり現代の我々にエネルギーや希少性といった「価値」を与えてくれる様々な鉱山。

金山、銀山、銅山、鉱山。

ドラマでよく描かれる発展途上の日本の風景。鉱山開発の為に切り開かれる自然と集落。地元民の反対を押し切って進められる開発。そして劣悪な環境で蝕まれる鉱山夫の健康。突然の落盤によって失われる作業員の命。などなど。

旧世代の遺産として負のイメージを伴うのがこの鉱山。それでいながらも、迷宮の様に広がる地下通路。誰も踏み入れた事の無いその通路の先に、古代の財宝が眠っているかも・・・というロマンを併せ持つのもまた事実。

かつて熱狂した初期のファミコン・ソフトである「スペランカー」もまた、ヘルメットを被り、洞窟の奥深くへと秘宝の山を目指しながら下へ下へと進んでいくものであった。

そんな訳で、トロッコに乗り、狭い坑道の中を小さな灯りを頼りに進んでいくことはな現代社会では決して味わえないスリルとロマンを与えてくれる体験であるのは間違いない。かつて足を運んだ足尾銅山もまた、歴史の中で光と影を体験してきた日本の鉱山の歴史を見せてくれた。

そんな鉱山の中でも抜群の知名度を持つのがこの石見銀山。なんと言っても世界遺産に登録された鉱山である。面白いのは銀山として単独で登録されたのではなく、この地方全体に広がる史跡や遺跡と共に郡として登録されたものである。

それを理解するためにも歴史を紐解くと、まずは室町時代後期の1526年に当時、日本最大の貿易港であった博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見され、開発が開始される。

当時は掘り出された銀は近くの港から博多へと船で送られたため、その港の鞆ケ浦には多くの家屋が建ち並び、繁栄した。その当時、この石見国を支配下に治めていたのは、戦国大名大内(おおうち)氏であり、博多を拠点として中国・朝鮮と貿易を行い力を蓄えた大名である。

金や銀などの貨幣価値を持つものが栄えるのはどの時代も同じであり、その金脈を自らの手中に収めようと近隣の大名も常にこの石見銀山を奪おうと機をうかがい続ける。

その流れを受け、1550年代には出雲地方を拠点とする戦国大名尼子(あまご)氏が石見銀山の実権を奪うことに成功する。しかしそれも長く続かず今度は南の安芸(あき)地方の大名毛利(もうり)氏が支配権を奪っていく。

毛利氏は銀山から西に位置する温泉津や沖泊に家臣を置き、周辺地域への支配を行った為に、銀山から中継地である西田の町を経由して温泉津(ゆのつ)・沖泊に至る街道が整備され大いに栄える事になる。

特に温泉津(ゆのつ)は温泉地であるとともに、日本海沿岸の船舶交通の寄港地としても有名な場所であった。16世紀後半には既に集落が存在し、17世紀初頭には宿泊施設・商業施設を含む繁華な町に発展した。

その後、毛利氏が戦国時代を制した豊臣秀吉の傘下に収まったことで、石見銀山の支配権は豊臣の手中に納まることになる。その安定した銀山経営が豊臣の天下統一に大きな力となっていく。

関が原の合戦を制した徳川家康がもちろんこの石見銀山の実権も奪う事になり、徳川幕府の安定した時代と共に、効率的な銀山運営が行われ、当時では世界でも有数の銀山として世界に知られるようになる。

そうして掘り尽くされた銀は無限である訳が無く、1620〜1640年代頃を最盛期として銀生産減少に向かう。その後18世紀、19世紀と徐々に坑道が閉鎖され、石見銀山は衰退の一途を辿ったが、その保存状態の良さから近年の世界遺産登録と相成ったわけである。

そんな訳で、坑道を歩けるもんだと勝手に想像して向かった石見銀山世界遺産センター。閉館ギリギリに到着したので、既に坑道へのツアーは終わってしまっていると言うので、残念ながら展示品を眺めて気分を盛り上げる。





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