2013年11月30日土曜日

「反貧困―「すべり台社会」からの脱出」 湯浅誠 2008 ★★

現行の報道などを見ていると、不正受給や若くて健康なのに働こうとしない人など生活保護の問題を刷り込まれ、精神的に弱い人間が甘いシステムに依存して、楽をして生活していることで真面目に働いている人間に皺寄せが来ている。なんて風に考えてしまいがちだが、それの考えがミクロな視点であり、本質的には貧困というマクロな視点を持って眺めないと近視眼的になってしまうとよくよく理解できる一冊。

それにしても、派遣村の村長で、労働問題を主に取り扱っている社会活動家であり、近頃は政府に請われて参与などをやっている人という認識だったが、改めて東大で博士課程まで進んだエリートなのだと知ると、その活動内容もまた違って見えてくる。

本書でも出てくるように、貧困を自己責任だとして攻めてしまう奥谷禮子の「弱い人が増えています。まさに自己管理の問題」という発言の様に、確かに様々な能力が足りなかったり、努力が足りなかったりするために貧困に陥っている人がいることは確かであろう。

しかしそれが同時に、こちら側にいる自分の幸福の再確認作業になってしまったり、ましてや自分は努力したから当然だと思ってしまうことも多々あるだろう。しかしその正当性を改めて考えてみる必要があるのだと思わずにいられない。

本書の中に出てくるように、大学受験に合格した人が、「それができたのは、高い教育費をかけてくれた親がいたからだ」と考えることは少ないだろう。という言葉の様に、自分の努力で手に入れたと思っている今の居場所は、実は親を始め多くの援助のもとで可能になった選択肢があったからだと思う必要があるのだと実感する。

「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」でも描かれるように、外からの視点を手に入れるには、外にでるチケットを手に入れる必要があるし、外から冷静に自分がいた場所を見返せるようになるには、心に余裕を持って時間が過ごせるような生活を得る必要がある。

そこに辿りつく為には、学を修め、職業的にもキャリアを積んでいく必要があるが、そのためには自分の努力ももちろんであるが、そこにチャレンジする様々な援助が必要となり、それは家族を始め育っていく中で多くの人から与えられてきたことになる。

それが如何に恵まれていることか。当たり前だと思ってきた時間が、どれだけ恵まれていたのかを良く知ることができる一冊であり、「オリンピックの身代金」で描かれたような人夫の様な日常を送る人々が今の現代でも多くいるんだと理解する。

親の貧困のせいで十分な教育と愛情を得ることが出来ない幼少時代を過ごし、精神も健康も蝕むようなネットカフェ難民に陥り、何とか手にした仕事で日雇い派遣会社に経済的にも精神的にも搾取されていく。ダメだと思いながらも止めることができない負の連鎖。

雇用のセーフティネットからも、社会保険のセーフティネットからも、公的扶助のセーフティネットからも抜け落ち、作者が「五重の排除」と言うように教育過程、企業福祉、廉価な社員寮・住宅手当・住宅ローン等々、家族福祉、公的福祉、そして自分自身からの排除を受けてたどり着くのは唯一頼ることができる生活保護の制度。

外界からの衝撃を吸収してくれるクッションの役割である、「溜め」であるお金や頼れる家族を持たない人間は、なんら防護服を着ることなく厳しい野生の世界に放り込まれる。そんな人々が「できることなら自立したいがどうしようもなく・・・」と最後にたどり着くのが生活保護。

それを悪用したり不正受給するものたちのせいで、まったく違う側面ばかりが注目されてしまう現行の生活保護。「需給規定を厳しくすればいい!」「現物支給にすればいい!」などという声が高まれば高まるほど、本来そのシステムを必要とする人たちの姿はより見えなくなっていく。

そういう人たちを「弱い人間だ。自堕落な人間だ」と切り捨てるのは簡単だが、それでは根本的な解決には至らず、根本的に解決していなければ、社会自体がより負担を被り、じわじわと傷を広げていくばかりである。

そこにたどり着いているような人たちが、もっと早くに何かしらの手を打てるような社会にすること。そういう人が貧困に陥ることなく生きることが出来る社会に変えていくこと。親の貧困が連鎖することで子供も同じく貧困に陥るのではなく、どんな状況下でも同等の教育が受けられるようなシステム、努力すれば同じ機会が得られるような社会にしていくこと。

格差だと叫びながらも、他の国の様に貧しければ貧しいなりに楽しい生活ができるような、生活費にもっと幅を持たせることができる多様性を受け入れた社会に変えていくこと。持つものだけが更に富んでいく社会ではなく、月々10万円でも十分に満ち足りた生活ができるような場所を持つ社会にしていくこと。

「下には下がいる」「やりたいヤツはいくらでもいる」「おまえの代わりはいくらでもいる」と現在の地位を維持するためにも高い労働付加価値が要求されるようになり、労務管理・人事考査が厳しくなって、全体の労働条件が切り刻まれた現在の社会を少しでも変え、低収入の人たちも人間らしく生活の営める幅の広い社会の在り方を模索していく必要がある。

どんな人達でも安心して老後を迎えられるような現代に適応した新しい年金制度への移行を進めるなど、縮小社会に向かう今後の日本においては、国が担う役割が非常に大きいと思うが、それと同時に貧困が個人の問題ではなく、社会の問題であり、それは結局のところ自分の問題であるという認識の変換も迫られているのだと実感する一冊。
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目次
/まえがき

第I部
/貧困問題の現場から

第1章
/ある夫婦の暮らし  
/ゲストハウスの新田夫妻
/貧困の中で
/工場派遣で働く
/ネットカフェ暮らし
/生活相談に<もやい>へ
/貧困は自己責任なのか

第2章
/すべり台社会・日本
/1 三層のセーフティネット
/雇用のセーフティネット
/社会保険のセーフティネット
/公的扶助のセーフティネット
/滑り台社会
/日本社会に広がる貧困

/2 皺寄せを受ける人々 
/食うための犯罪
/「愛する母をあやめた」理由
/実家に住みながら飢える
/児童虐待の原因
/親と引き離される子・子と引き離される親
/貧困の世代間連鎖

第3章
/貧困は自己責任なのか
/1 五重の排除
/五重の排除とは
/自分に地震からの排除と自殺
/「福祉が人を殺す時」

/2 自己責任論批判
/奥谷禮子発言
/自己責任論の前庭
/センの貧困論
/「溜め」とは何か
/貧困は自己責任ではない

/3 見えない“溜め”を見る
/見えない貧困
/「今のままでいいんスよ」
/見えない「溜め」を見る
/「溜め」を見ようとしない人たち

/4 貧困問題のスタートラインに
/日本に絶対的貧困はあるか
/品kのんを認めたがらない政府
/貧困問題をスタートラインに

第II部
/「反貧困」の現場から

第4章
/「すべり台社会」に歯止めを

1 「市民活動」「社会領域」の復権を目指す
/セーフティネットの「修繕屋」になる
/最初の「ネットカフェ難民」相談
/大作が打たれるまで
/ホームレスはホームレスではない?
/生活保護制度の下方修正?
/「反貧困」の活動分類

/2 起点としての〈もやい〉 
/「パンドラの箱」を開ける
/人間関係の貧困
/自己責任の内面化
/申請同行と「水際作戦」
/居場所作り
/居場所と「反貧困」
 
第5章
/つながり始めた「反貧困」
1 「貧困ビジネス」に抗して―エム・クルーユニオン
/日雇い派遣で働く
/低賃金・偽装天引き
/貧困から脱却させない「貧困ビジネス」
/労働運動と「反貧困」
/日雇い派遣の構造

2 互助のしくみを作る―反貧困たすけあいネットワーク
/労働と貧困
/自助努力の過剰
/社会保険のセーフティネットに対応する試み

3 動き出した法律家たち
/北九州市への告発状
/大阪・浜松・貝塚
/法律家と「反貧困」
/日弁連人権擁護大会
/個別対応と社会的問題提起

4 ナショナル・ミニマムはどこに?―最低生活費と最低賃金 
/「生活保護基準に関する検討会」
/最低賃金と最低生活費
/最低生活費としての生活保護基準
/知らない・知らされない最低生活費
/検討会と「もう一つの検討会」
/「一年先送り」と今後の課題

終 章
強い社会を目指して
/新田さんの願い
/炭鉱のカナリヤ
/強い社会を
/人々と社会の免疫力
/反貧困のネットワークを
/貧困問題をスタートラインに

/あとがき
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