2013年8月15日木曜日

「風の歌を聴け」 村上春樹 1997 ★★★

----------------------------------------------------------
第22回(1979年) 群像新人文学賞受賞
----------------------------------------------------------
かつて「ロンシャンの教会」を見に行った時に、たまたま訪れていた日本人の女性と一緒になった。話を聞くと仕事でパリに住んでいる旦那さんを訪ねに来たついでに、昔からいつか訪れてみたいと思っていたこの建物を見に来たという。

興奮した様子で、「何年も前に見た雑誌の、その時想像した日の光と影と樹々の緑と吹き抜けて行く風。その想像通りの空間がここにある。その中でこの建築を体験できて本当に幸せだ」と言っていた。

それを聞きながら若い建築学生は、一人心の中で感動を抑えられずに涙を流しそうになったのをよく覚えている。心の中を「ブワッ」と風が吹いて行ったような気がした。

「この世の中には、この人の様に素晴らしい感受性で建築を経験してくれる人がいるのか」と、その事に感銘を受け、そして「自分にもいつか誰かを、そんな風を感じさせてあげられる可能性があるのだ」ということに心が震えた。

あの日の自分は間違いなく風の歌をを聴いたのだと思う。

29歳の時の処女作。流石だと思うのは、ウィットに飛んだ表現や、自由気ままな登場人物に振り回されるような話の流れだが、最終的には一つの物語としてちゃんと着地してしまうところ。これが趣味で文章と戯れるのとは違う文章を職業とする人のなせる業なのかと唸ってしまう。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

そんな言葉で始まる物語。様々な人物に出会い、徐々に人生を生きていく自らの思想の基礎を作り上げる20代。10代最後の夏が何か少し甘酸っぱい味をさせるように、20代に築いた言葉達を持ってこれから社会と対峙していく後戻りできないような20代最後の夏はまた違った味がするものだ。

「今、僕は語ろうとしている。」

「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分とを取り巻く事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」

20代最後の夏までに積み上げた頭の中を浮遊する言葉達。その言葉達に一本の筋道をつけ、物語を紡ぎ始める。頭の中から溢れ出る言葉を書き留めるために語るのか、靄のような曖昧な目の前に浮かんでいるものをつかめるようにするために語るのか。


「真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だから。市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういうものだ。夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫をあさるような人間には、それだけの文章しか書くことが出来ない。そして、それが僕だ。」

20代、あれやこれやと悩みぬいた青年にとっては、果てしなく真実であろうこの言葉。芸術の持つある種の特権性。自分の明日が見えない人間が、他人の未来を照らす芸術を作り出せると言うのか。

「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」
「金持ちであり続けるためには何も要らない」

現代において特権的である為に必要な経済性。その経済的優位性が、同時に芸術的優劣に投影されなくなって久しい時代。豊かさが細分化し陳腐化していった先に、特権階級の社会的、芸術的責任がないがしろにされている時代。

「人間は生まれつき不公平に作られている。」

誰の言葉だろうと関係なく、夢を追い求めては悔しい思いをする若者には紛れも無く事実である言葉。それを嘆いている間はまだ若いという証明なのだろうか。

「文明とは伝達である。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。」

伝えること、それが人類が誇れる数少ない発明であろう。如何に伝えるか?その為に様々なイノベーションが行われてきた。では、何故伝えるか?何を伝えるか?それに目を向ける時代に入っているのは間違いなく、伝えられる側がそれを望まなくなった時代にどう新たなる伝達が可能かを真剣に考えていく時代になるだろう。

「街にはいろんな人間が住んでいる。僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、思い出のほとんどはそこに結びついている。」

街というのは、多様な人間の、多様な生き方を写し取る巨大なノートの様な物で、どんな物語の舞台にもなりうる。必要なのは多様な登場人物達を抱え込み、都市という舞台環境を与えておけば、勝手にドラマを演じ始める人間達。その中で想定していない様々な感情を生み出し、傷つき、喜び、そして去っていく。これもまた人類の成した大きな功績に数えられる。

「あらゆるものは通り過ぎる。誰もそれを捉えることはできない。僕達はそんな風にして生きている。」

この世の全ては「流れ」の中に存在する。その「流れ」がどのような時間のスパンに属しているかは様々だが、留まることは淀むこと。淀むことは死ぬこと。自分のことをまだ「僕」と呼ぶ20代の最後。自分では決してコントロールできない「流れ」の中で、「流される」のではなく、自ら「流れる」ことに向かって生きていく。

ニーチェの言葉としている「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」の引用で幕を下ろすひと夏の物語。そんな言葉をニーチェが言ったかどうかはどうでもよく、それもまた「僕」が聴いた風の歌の一部であろうと思うこと。

人生にそう多くは吹かない大切な風の歌を、できるだけ耳をすませて聴いていく。それが「流れ」の中で「流されず」に生きていくことにつながるのだろうと思わずにいられない。

0 件のコメント: