2013年3月8日金曜日

いつから老いるか


「再不学习,我们都将老去」

北京の地下鉄の広告。かなりドキッとするコピーだと思い、中国人スタッフにその意味を確認して見るが間違っていないようだ。

「学ぶのを止めた瞬間から、我々は老いていく」


誰もが歳を取るにつれて、「老いたくない、老いたくない」などと口にするが、何を持って老いるのかを考えてみる。体力が落ちていくのは当たり前で、それは身体を鍛えることで克服できるだろう。しかし、そんなことは「老い」ではない。本当の「老い」は「成長」しようとするのを止めた時から始まる。

高校生までは意思と意志に関係無く、学んだり、本を読んだりする機会を強いられる。その後の人生においては、よくよく言われるように自分で時間を管理する自由を手に入れる。身体の目に見える成長、身長が伸びたり日常生活の中でも筋力が上がったりとする時期も、この大きな時間の使い方の変遷期で終了するのもなるほど良くできていると思わずにいられない。

つまりそれ以降の時間で自分をどう成長させるか?もしくは成長出切る様な環境に自分をおけるか?もしくは何を持って自分の成長かをちゃんと考えてきたか?によって例えば同じ30歳でも中身は全く異なる人物となる可能性があるわけだ。

まともに社会人となりある程度の会社に入社すれば、新人研修という期間に社会で人とうまくやって行くための「いろは」や「生活の規律」の基礎を教え込まれる。大学に入ってから自分で管理する時間の中で、とんでもなくだらけてしまい、怠惰な生活を送っていたような自分を律することの能力のない人間でも、最低限この「新人研修」とうい通過儀式によってそれなりの社会人へとなっていくものだ。

それでも馴染めない人間が、「自分探し」や様々な言い訳を探しながらも、また自分で時間を管理する生活へと舞い戻り、「ニート」や「格差」ということばを作っていくことになる。

それは兎も角、突き詰めれば「成長」とは昨日の自分よりも今日の自分の方が自分の価値観の軸線上でベターになったかどうかであるだろう。

持ち上げれなかったダンベルを上げれる様になったという身体的成長は筋トレでいくらでも維持出切る。恐ろしいのはやらないと現状維持ではなく、あっという間に落ちて行き、再開するのもしんどいし、増してや辞める前のレベルに戻すのは相当時間がかかる。その人間の摂理を教えてくれるのも筋トレの大きなアドバンテージであろうが、とにかく続けるのが何よりの秘訣であり、それ以前に何も鍛える事をやっていない、それがどのような意味を持つのか気づいてないのは相当後でツケが出てくるだろうと想像する。

同じように考えると人間としての思考力や理性、言葉の能力もどうやってあげていけるか?読書をしたり、新聞を読んだり、時事問題を考えたり、または新しいものを見て刺激を受けたり、色んな人に出会って会話をしたりと、様々なことが考えうる。

しかしそのどれもが決して受動的ではあり得なく、かつて学生だった頃の様に誰もがご親切に用意したり、推薦したりは決してしてくれない。何が必要かと考え、自分から動いて見つけ、時間を割いて学んでいかないといけない。それは確かに苦痛であろう。できることなら誰もが避けたいであろう。

日常の中でも学ぶ事はあるからとよく聞くが、そんなのは当たり前で、小学生だって毎日生きてく上で学んでおり、問題なのは年々上がっていく自らの年齢に見合った何かを学んでいるのか?ということ。

ただその前に座ってチャンネルを変えていれば、バラエティーからドラマなど、ダラダラと決して自分で選んだことではない刺激に身体を晒すことができるテレビ時代に人格形成をし、更に多様になった欲望と刺激に答えるネット世界で生きている我々の年代にとっては、如何に「苦痛」に向き合うかが重要である。

新聞を読まない、読書をしない、旅行にいかない、新しい出会いを求めない。ただただ自分の感情、自分の思考に波風の立たない安穏とした生活範囲のなかで、ただひたすらに受動的に生きていくこと。それはきっと、年金を払わなかったり、貯金をしてなかったりとすることよりもよっぽど、自らの将来を危険に晒すことになるのだろうと想像する。

語学でも、習い事でも、仕事でも、何か昨日よりも今日が、今日よりも明日の自分がベターになっていたいと思えることを持って生きること。それが自分に「成長」をもたらし、「老い」から自らを遠ざける。死ぬ瞬間まで一度も「老いる」ことなく生きていける、そんなことも可能なんだと、そんな風に思わせてくれた一枚の広告。

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