2011年3月9日水曜日

「建築史的モンダイ」 藤森照信 ちくま新書 2008 ★★★















目利きは目利きとしていて欲しいが、その本領発揮の文章がいくつか読める一冊。
/建築と住まいの違いとは?、の中で「住まいと建築は違う。それは美しいかどうか」とし、その為には「視覚的な秩序があること」を挙げる。そして「形と材料に秩序があり、その建築的秩序があたりの環境とも統一を保っている」と続ける。民家には無意識の美が蓄積され、木や土や石や草を使い、周囲と乖離せず、それ同居する自然界の見えざる秩序や統一を、人の眼は美しいと感じる。そこには住まいにはない感動がある。とする。確かに良い建築を目の前にすると、ここの納まりがどうのこうのとか、現代社会に対応した・・・なんてことよりも、まずは訴えかけてくる高揚感があるかどうかだと思う。その根拠は環境を含めた周囲との視覚的秩序だということ。
/住まいの原型を考える、ではフランス南部のラスコーでの、絵の描かれた洞窟と人の住んだ洞窟の場所の違いの発見から、住むのは入口近く、描くのはずっと奥であり、入口が半分空に開いた開放的で、見晴らしが良いというのに対し、内に向かった感覚の先には火があることから、壁に浮き上がる影の存在によりスクリーンのような壁の出現し、そこに発見された表皮性;サーフェイスではないかと仮定し、建築の外観(ファサード)は野外において太陽が生み育てた、とするなら、建築の内観(インテリア)は洞窟の中で産み落としたのではと続ける。
/建築を建築たらしめるもの、では建築の宿命として一箇所にしかたてることは出来ないこと。それはつまり、建物というものは広い台地と特定の一点で不可分に結ばれていることであり、そこから土と建物が接するその一点に決定的なテーマが発生する建築の本質へと発展する。建築が、実物大の模型にならないようにするためには、環境との親和性、連続性が重要となり、地面の上にスックと立ち上がっていた、という印象を与えるような自然に立ち上がった大地としての地面との関係。建物と地面の接する一点のデザインが、建築がそこに本当に存在するか否かを決定するのであるとする。そういう観点で見ていくと、近代建築の巨匠達も形無しであるとし、コルビュジェのサヴォア邸なんかひどく、建築・地面論的には最悪と切り捨てる。逆にあの時代、個々の地面に拘っていてはインターナショナルになれない状況のなかでもやっぱり、白い箱型を最初に抜け出た コルビュジェで、そのヒントは打ち放しコンクリート仕上げにあり、あれだけこだわったピロティの柱の新しい形として、スイス学生会館のホールの壁などに現れる、打ち放しの中に大地の破片たる自然石と相通ずるものを見ていたのでないかとし、厚く太くなり、壁柱(ピア)と化し、逆三角形として大地に突き刺さる接地方法。モダニズム建築の中でいかにして台地は発見されたか。レーモンドは、打ち放しは大地の一つであると高々と言い放ち、吉阪隆正大学セミナーハウスにて建築本体を逆三角形として大地に突き刺す。モダニズムが気づき始めたコンクリートの液体性。それは写し取ってしまう、ネガとポジ。
II.和洋の深い溝、では日本で様式というものが一度成立してしまうと生き続ける不可思議さに注目。西欧では、ロマネスクやルネサンスといった様式が時間軸に沿って展開するが、日本の場合は時代に従属せず、用途に従うために、今の時代でも数奇屋様式などと一度成立したものが、ずっと生き延びて共存してしまうことを説明する。
/教会は丸いのだ、においては、建築の本質の問題として、建築はいかに発生したかを、長い歴史がありかつ今も生きているタイポロジーとしてキリスト教の平面問題を見て、バシリカ式と集中式の比較を行う。
/ロマネスク教会は一冊の聖書だった、では、言葉よりも図賞が優先した時代においては、教会の建物が一冊の聖書として扱われ、布教活動の大きな役割を持っていたとし、聖画がバシリカの壁面や天井面への拡大し、聖画の教会占拠をしていく過程を説明し、その意味からステンドグラスの出現を見る。
III.ニッポンの建築、では、/日本のモクゾウ、において、都市における火事と資本主義の問題から、どうにかして大火だけは防ぐために、中は木造のままだが、外だけ木造をやめるという準防火の普及の過程で、辰野金吾、地震学の佐野利器つづく建築界三代目のボスで安田講堂の設計などで知られる内田祥三が果たした役割を説明する。彼がたどり着く準防火。火事の時に延焼を遅らせる。火のまわりが遅ければ人は逃げることができるという時間差の問題。建築よりも人命を守ることに重きをおいた当時の解放は今も脈々と建築基準法を縛り付ける。
/焼いて作る!?、では桂離宮を見たコルビュジェが、即答で「好きになれない。線が多すぎる」と言ったことから、線、面、塊の構成の違いを展開して、線として現れる木材をどうやって面として塊として扱うかを自作を通して解説。材料というものは長ければ長いほど広ければ広いほど材質感は強くなるというが、自然にあったままの形を現すとすれば、その通りだと思う。
最後に/打放しの壁をたどると・・、では、打ち放しコンクリートが日本の私小説の伝統を終わらせたとし、前面打ち放しコンクリートに染められた日本の建築界が直面した問題、民家や古社寺の魅力をどう現代建築の中に活かせばいいか?に大して、木という素材の扱い、つまりは型枠の表現をどう写し取るか。コンクリートの本質として、型枠という雌型を写し取ってしまう液体性に対してどういう表現の方向性をとるかに言及。
ざーっとまとめてみても、改めてここ何年かずっと興味を持って考え続けてきたことのヒントになる部分が多く含まれる一冊だと認識。



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